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法政大学非公認サークル
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【実験理念】

 19世紀、ヘーゲルにおいて頂点に達した理性信仰は全てのものを客観化、普遍化しようとした。その結果人間をも普遍化し、科学の対象としてしまった。すると個々の人間に目を向けなくなる。このことを問題視して、20世紀に実存主義が生まれた。すなわち、原子の集合体としての人間から、具体的生を生きる私へと転換が図られ、1943年にはサルトルをして「実存は本質に先立つ」と言わしめるようになる。彼が「実存主義はヒューマニズムである」というのは、実存主義のパースペクティブが自己の生を生きる人間に向いているからである。この転換は哲学史上の転換であるが、これを宗教、とりわけ新旧約聖書にあてはめることはできないだろうか。
聖書読解における重要な概念の一つとして原罪というものがある。これは 旧約聖書においてアダムとイブが禁断の木の実を食べたことから、それ以降人間は全て生まれながらにして罪を背負ってしまうのだ、という考え方である。人間をこの罪から救うためにイエス・キリストは地上に降り立ち、すべての人間の罪を背負って十字架に張りつけられた。このキリストの行為は新約聖書に記され、それ以降「キリストを信じるものは救われる」という思想が生まれた。これがキリスト教である。しかしこの思想が後に、信じない者の迫害や、キリストへの信仰告白を一手に引き受けた教会の横暴などを引き起こしたことも事実である。
さて、理性信仰から実存主義への転換を原罪の概念に当てはめてみると、「人間とは生まれながら原罪を背負っているものだ」という考え方から「私は生まれながら原罪を背負っている」という考え方への転換と見ることはできないだろうか。実存主義心理学者のV.E.フランクルは、「意味への意志」を追究する中で人生の意味に対するコペルニクス的転回を行った。もちろんフランクルのコペルニクス的転回が意味していることは、人生からの問いに対して、正しい行動でもって回答するべきだ、ということである。しかし、この人生という語を神に置き換えて考えてみたとき、我々がまず求められていることは、我々がアダムとイブ以来神に対して負っていながら、キリストに押し付けてしまった罪を責任を持って背負うことではないだろうか。フランクルはユダヤ教徒である。すなわち旧約聖書のみを信じる。彼なら新約聖書においてキリストに背負わせてしまった我々の原罪を、今、此処にいる我々自身に戻すべきだと、言うのではないか。そこで、私自らの原罪を背負うことが、どれだけ人生からの期待に応えられることなのか実験によって証明したい。



【実験方法】
十字架を背負い、磔にされる。

2009年聖夜。
イルミネーションに彩どられた町の中で、十字架を背負う(罪を背負う)ことで救世主の誕生を祝った。



 
 


さらに、キリストに習って石を投げてもらう。
彼の「罪のないひとだけが最初に石を投げなさい」という言葉に従ってみたが、誰も投げてくれない。




そこで「罪を償いたい人は石を投げてください」とすると、罪に苛まれた人々がやってきた。




しかし、おじさんに「寒いでしょう。いつまでやってるの?」と聞かれる。
「この石を投げてもらわないと。」と答えると、「石を全部投げれば終わるのね。」といって、置いてあった石を全部どこかへ投げ捨ててしまったため、実験終了。

自分の罪を償うためではなく、我々を哀れんで石を投げてくれていたのか。
なんて慈悲深き人たちなんだ。


【実験結果】
自分の罪を自分で背負おうとすれば、他人の哀れみを買うことができる。
他人の慈悲によって、人間は罪を背負うことができるようになる。

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