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法政大学非公認サークル
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(実験理念)

 近代以降、我々の眼前に現れた脱中心化という現象に我々はどう適応していくべきだろうか。教育におけるパターナリズムの論理は80年頃には判例法上既に破綻し、民法上の権利しか認められないようになり、特別権力関係論の非対称性を無前提に振りかざすことが必ずしも自明ではなくなった昨今、インフォームド・コンセントに見られるように自己決定権が声高に主張され、人間関係のフラット化が急速に進行し、世界各国は抑圧からの解放という文脈で「自由」を称揚するようになった。
 しかしながらマルチカルチュラリズムの論者として有名なチャールズ・テイラーは、自由主義は普遍的に文化にアクセス出来るものではなく、あくまでそれは一群の文化の政治的表現であると主張する。例えば西洋型自由主義は自由主義的知識人の間で偶然評判の良い世俗的、脱宗教的なものの見方の表現というよりはむしろ、キリスト教という文脈における有機的な産物であるに過ぎず、すなわち自由主義は完全な文化的中立を主張し得ず、自由主義もまた戦う一宗派であるというように。
 少なくとも明らかなことは、今日上述したような様々な主張が見られることからわかるように、何が本物で何が偽物か、といった社会的正当性を担保しうるものが著しく減少しているということである。それは言い換えればこの変化が現れた近代以降の社会の脆弱さを露呈しているということであり、また市民の不安を絶えず惹起し続ける恐ろしきものでもある。何が中心かを他者が提示してくれない中で、我々に出来ることは、今日のあらゆる流動的に錯綜する事象の相対化――それは歴史に留まらずあらゆる事象に解釈学的循環の中に積極的に入っていくことを意味する――を通して、自らの手で共同幻想を獲得する行為ということになる。
近年、資本主義が文化を断片化し商品化する一方で、主体が再帰的に文化にアクセスするイヴェントが増えている。中でも祭りはその代表的なものといえよう。今日の祭りの中には従来の伝統や文化といった文脈から一旦切り離された後で、二次的な意味や役割を含有させて再登場するものが多くみられる。その際に祭りの再帰性ゆえに問題視されるであろう本物/偽物という批判は大して意味を為さない。なぜならば、今日のコマーシャリズムがオリジナル/コピーでもないシュミラークルという別のものとして示されているように、主体の文化へのアクセス目的はアイデンティティーの獲得が占めるところが大きく、その真偽は重要視されていないからである。
この再帰的な文化へのアクセスとコマーシャリズムにおけるシュミラークルの台頭の親和性も今日における錯綜するさまざまな事象の一例であるが、果たして市民はその中で主体(中心)を獲得することができるのだろうか、あるいはそれが不可能であったとしてもその後に待ち受けるものに適応することができるのだろうか。そこで今回はゼロ年代以降一貫してコマーシャリズムの一角を担うスイーツ産業と再帰的な文化へのアクセスの代表例である祭りを組み合わせることでそれを検証してみることとしよう。


(実験内容)
スイーツを販売する。


大麻使用が発覚した多摩校舎で・・・

 



絶品スイーツを販売♪




魔法の白い粉(砂糖)
シケモク
多摩校舎のわき道に生えてたきのこ
それっぽい雑草など

様々な世代のお客さんがスイーツを味わっていった。










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